見合結婚

日曜日の朝、近くの上野不忍池まで散歩に行き、帰りに池のほとりの茶屋で甘酒を飲むくらいが唯一の父と息子との交流の機会で、家族そろって旅行に行くとか芝居を観に行くなどということはまったくなかった。昭和の初期には、夫は外、妻は内を守るというようなけじめがどこの家庭でもだいたいついていたようで、今から考えると、夫婦の楽しみ、家庭のだんらんなどということも極めてまれだった。父と母の関係は、年齢が離れているということもあったろうが、まるで主従のようで、父は厳然として家庭に君臨していたのに対し、母は子供たちにはやさしかったかわりに家庭内ではどこか頼りなげだった。母はどんなに父の帰りが遅くとも、ちゃんと起きて待っていた。若いころの母は、夕方になると鏡台に向かって襟白粉(えりおしろい) をつけ、髪を結いなおして父を待ったが、幼いぼくはそんな改まった母の様子が嫌いで、駄々をこれてとうとうやめさせてしまった。今思えば、美しい若妻に迎えられて帰宅する父の楽しみを奪ってしまったわけで、父にはすまないことをしたと思っているが、そのころたぶん三、四歳だっただろうぼくは、白粉のために母らしい体臭のしない母など、他人行儀でちっとも好きになれなかったのだ。父は信州の安曇野で生まれ育った水呑百姓の十人兄弟の末っ子だったが、十八のときに家をとび出し、苦学力行して三十そこそこで東京のある商事会社の重役に抜擢(ばってき) された。まず相手がいないと、何もできないので、結婚相手を探してください。子年生まれのせいか、こまかい所によく気がつきまめによく働いた。バイタリティがあるだけに、女性関係も適当にやっていたらしいが、父がうまく立ち回っていたのか、母が利口だったのか、そのことで家庭内に波風がたったことは一度もなかった。

参考: DK126_L